浸水リスクは地価に織り込まれているか?

近年、台風や集中豪雨による被害が毎年のように報道されるようになっています。線状降水帯という言葉もすっかり定着し、水害リスクは住宅購入者にとって無視できないテーマとなっています。不動産取引の現場でも2020年8月からは宅地建物取引業法の改正により、重要事項説明の際に水害ハザードマップを提示し、対象物件のおおよその位置を説明することが義務化されました。住まい探しの際にハザードマップを確認することは、今や当たり前になりつつあります。では、こうした意識の変化は実際に不動産価格へ反映されているのでしょうか。

浸水リスクは地価に織り込まれているか?

地価公示を調査

もし市場が浸水リスクを重視するようになっているのであれば、浸水リスクの高い場所は価格上昇率が低くなっていても不思議ではありません。そこで今回は、目黒区、世田谷区、杉並区に存する住宅系用途地域の地価公示地点184か所を対象に分析を行いました。この3区を選んだのは、東京都区部の中でも人気のある立地であるとともに、高台と低地が入り組んでいる場所でもあるからです。

調査の起点は2019年としました。2019年10月には令和元年東日本台風(台風19号)が発生し、多摩川流域をはじめ各地で大きな被害が生じたからです。タワーマンションが浸水によって長期間停電したことを覚えている方も多いでしょう。この出来事をきっかけに、人々の水害リスクに対する認識が変わり、それが不動産価格にも反映されたのではないかという仮説を持ちながら分析を進めました。

分析では、2019年から2020年、2019年から2022年、そして2019年から2026年までの価格変化率を比較しました。また、駅からの距離、道路幅員を踏まえた容積率、行政区の違いなどの影響も考慮しながら、水害リスクとの関係を調べています。なお、水害リスクについてはハザードマップに記載された最大想定浸水深を用いました。ただし、浸水深50センチ未満の地点については実質的なリスクが小さいと考え、リスクなしとして扱っています。

保有する物件・土地の定期的な資産価値の確認がポイントです。

強い影響を与える駅からの距離

分析結果は意外なものでした。価格上昇率に最も大きな影響を与えていたのは、浸水リスクではなく駅からの距離でした。
2019年から2026年までの分析結果によると、駅からの距離が100メートル遠くなるごとに価格上昇率は約0.5%低下することがわかりました。駅から1キロメートル離れると、おおよそ5%程度の差になる計算です。また、容積率も強い影響を持っていました。容積率が100%高くなると、価格上昇率は約6%高くなるという結果です。より高度な土地利用が可能な場所ほど市場から評価されていることを示唆しています。

地域差も興味深い結果となっています。杉並区を基準とすると、世田谷区の価格上昇率は約6%低く、目黒区は約9%高いという結果でした。少なくとも今回の分析期間においては、目黒区の住宅地に対する市場評価が相対的に高かったことがうかがえます。

浸水リスクの影響

一方で、肝心の浸水リスクについては明確な影響を確認できませんでした。最大浸水深を用いた分析でも、浸水リスクの大きさと価格上昇率との間に統計的な関係は見られませんでした。また、浸水リスクを「浸水なし」「0.5~3メートル未満」「3~5メートル未満」「5メートル以上」といった区分に分けて分析しても、価格変化率との明確な関係は確認できませんでした。さらに、台風19号の影響が比較的反映されやすいと考えられる2019年から2020年、2019年から2022年についても同様に分析しましたが、結果はほぼ同じでした。つまり、少なくとも今回対象とした目黒区、世田谷区、杉並区の住宅地市場では、水害リスクが価格形成に大きな影響を与えているとは確認できなかったのです。

なぜ影響が見えなかったのか

もちろん、この結果をもって「水害リスクは気にしなくてよい」と結論付けることはできません。まず、今回用いたデータは地価公示価格を用いた価格上昇率であり、実際の成約価格を用いた価格上昇率ではありません。地価公示価格は不動産鑑定士による鑑定評価額であり、市場の動向を反映しているものの、実際の買主や売主の心理がそのまま表れるとは限りません。したがって、市場参加者が浸水リスクを意識していたとしても、その影響が地価公示価格には十分反映されていない可能性があります。

また、今回対象としたのは東京23区のなかでも住宅需要が比較的強い地域です。浸水リスクがあったとしても、利便性や住環境の魅力がそれを上回っている可能性もあります。より浸水リスクの高い地域や、実際の成約事例を用いた分析では異なる結果が得られるかもしれません。なお、浸水リスクは価格変化率には影響していなくても、「価格水準」そのものにはすでに織り込まれている可能性はあります。つまり低地のほうが高台より相対的に価格は抑えられがちであるといった傾向です。

リスクを認識したうえで購入する

私たちは水害のニュースを見ると、そのリスクを強く意識します。しかし実際の住宅購入では、駅への近さや通勤の利便性、生活環境といった要素も同時に比較しています。今回の結果を見る限り、市場は依然としてそうした立地条件を強く評価しているように見えます。

今回の分析結果は、少なくとも対象地域においては市場が浸水リスクを十分に価格へ織り込んでいない可能性を示唆しています。しかし、浸水リスクが存在しないわけではありません。リスクへの対応には一般に「回避」「低減」「移転」「受容」の四つの方法があります。浸水リスクのある地域を避けるという選択もあれば、高い基礎の住宅を選ぶ、防水板を設置する、水災補償付きの保険に加入する、避難計画を整備するといった方法もあります。重要なことは、浸水リスクがあるということを認識したうえで購入し暮らす。そして自ら対策を講じることだと思います。

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